ネットで読める周小史の名が見られる詩や小説。
周小史/張翰 繁華應令/劉遵
陳子高/陳文帝(陳蒨)
孌童/蕭綱
周小史/劉基
七月望抵武林陸履素使君招集湖上樂人周生瑾者年少善歌酒酣持扇索題即席塗抹四韻/胡應麟(撰)
Kanripo 漢籍リポジトリ : KR4e0218 少室山房集-明-胡應麟
無題再調昼公/曹寅
http://sauceshasi.lofter.com/post/1d0873d6_83e17ad
如此京華 第七回 陌上搴帷客來不速 燈前弄影記到名詞/葉楚傖
ネットで読める周小史の名が見られる詩や小説。
周小史/張翰 繁華應令/劉遵
陳子高/陳文帝(陳蒨)
孌童/蕭綱
周小史/劉基
七月望抵武林陸履素使君招集湖上樂人周生瑾者年少善歌酒酣持扇索題即席塗抹四韻/胡應麟(撰)
Kanripo 漢籍リポジトリ : KR4e0218 少室山房集-明-胡應麟
無題再調昼公/曹寅
http://sauceshasi.lofter.com/post/1d0873d6_83e17ad
如此京華 第七回 陌上搴帷客來不速 燈前弄影記到名詞/葉楚傖
◆参考文献
書籍
サイト
青洲兵が軍を去ったのは、曹丕の命令だった(前) - 濁泥水の岡目八目
◆参考文献
書籍
・魏晋南北朝期の男色詩における情欲表現/倉雅晨
・男色詩起源小考――周小史を中心に/倉雅晨
・「江東の歩兵」と呼ばれた張翰の生と詩と/大上正美
「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち (講談社選書メチエ)
サイト
研究発表 森鷗外と明清小説『情史類略』 ―『舞姫』『うたかたの記』『雁』を中心に―
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袁術の揚州支配について。
動画内にて、「袁術が揚州刺史陳温の死後その混乱に乗じ、揚州刺史を名乗った」と書いたわけですが、これは魏書袁術伝の「陳温を殺害し、州を支配した」英雄紀の「陳温死後混乱に乗じ、陳瑀を揚州刺史に任命。(中略)陳瑀は下邳に逃げ帰った」という記述を参考にしました。
実際、作者自身袁術が刺史として揚州を支配していたと思い込んでいたのですが、ツイッターにてご意見をいただき、事実は少し違っていたことが分かりました。
呉書孫策伝に、作者が見落としていた人物、袁術の故吏「恵衢」が登場します。彼は袁術により揚州刺史に任命されています。恐らく陳瑀の後釜として用意されたと思います。
では袁術は何だったのかというと、彼は「徐州伯」というものを名乗っていました。
伯というものは漢の官職に実在する役職では無く、あくまで袁術の自称によるものだと思いますが、牧や刺史を超える州の長官や監査官のつもりであることは字のニュアンスから察することができます。安宅産業の社賓のようなものでしょうか。
このときの徐州牧といえばおなじみ陶謙ですが、彼も袁術の息のかかった存在でした。
そして袁術の支配域としてもう一つ挙げられるのが豫州。ここは同じく袁術の下にいた孫堅が刺史を務めていました。(後に劉備が豫州刺史となり袁術はこの地を手放します。さらに徐州も劉備が牧となってしまいます。)
また袁術は徐州伯に就いて陳瑀恵衢を揚州刺史に任命以降、劉勲や袁胤など自分の息のかかった人物を太守に任命しています。このように自分の思い通りになる人物を刺史や牧、太守などに任命し、それを伯として裏で操り支配するというのが袁術のやり方だったようです。特に恵衢という人物は揚州刺史に任命されたこと以外事績の無い人物なので、本当の本当に袁術の傀儡だったのでしょう。
陶謙のみ順序が違い、徐州牧になった後袁術と手を組んでいますが、それ故に袁術は牧の上位職として徐州伯を名乗ったのではないでしょうか。しかしこの行為は後に陶謙と袁術が仲違いする原因の一つでもあったように思われます。
孫堅の場合は、袁術は南陽太守になり孫堅を豫洲刺史に任命しています。実は権限の上では「牧≒刺史>太守」ですが、秩石では「牧=太守>刺史」であり、太守は刺史よりも位が上になります。なので孫堅は自分よりも位が上であり、ヤクザまがいのケツ持ちをする袁術には逆らえませんでした。
しかし結局のところ、先述したように豫州を劉備にとられ、徐州もまた劉備にとられると徐州伯であることの意味もなくなってくるため「漢の命運も尽きかけてるし、これもう皇帝になったほうが手っ取り早くね?」という結論に至り、「あんな事」をしてしまったのではないでしょうか。
改めまして、ご意見いただきありがとうございました。当動画は視聴者の方々のご意見やご感想、応援などによて支えられています。
◆参考文献
書籍
ろくでなし三国志 本当はだらしない英雄たち (ソフトバンク新書)
サイト、デジタル論文
綿竹の地形と諸葛瞻の勝利について。
ニコニコ動画にて「綿竹は防戦に不向きでは?」といった内容のコメントを
いくつかいただきました。
お答えしますと、作者の不勉強により、綿竹も涪のような防戦に適する土地であると
思い込んでいました。その後ネット等で調べなおした結果、正しくは綿竹も平地であったようです。この場でお詫びいたします。
間違えたうえで僭越ですが、改めて綿竹が平地であったことを踏まえ、諸葛瞻がなぜ綿竹まで撤退して戦い、そして事実一度は鄧艾軍を撃退することに成功したのかと考えた結果、以下のような三通りの解釈をいたしました。
①戦いやすい場所を選んだ
②鄧艾たちは一度わざと負けた
③本当は撃退していなかった
①戦いやすい場所を選んだ
諸葛瞻はこの戦いが初陣となります。部将が優秀でも指揮官が簡単に死んでしまえば元も子もありません。
平地といえば正面から決戦を挑むには丁度良い場所となりますし、涪と比べて成都にも近く補給線も短くなります。諸葛瞻は皇帝の娘婿ですので、黄皓といえど補給を出し渋るわけにもいきません。
敵は寡兵で装備も兵糧も十分ではなく、恐らく成都を落とせなければ死ぬしかない片道切符のような状態だったと思われますので、比較的攻め落としにくい涪で消耗を待ち、戦いやすい綿竹で決戦を挑むというのが諸葛瞻の策だったのではないかと推測いたします。
②鄧艾たちは一度わざと負けた
初陣の諸葛瞻ですが、このときは降服勧告に来た特使を斬るほど血気に逸っています。
そこでさらに、魏軍のベテラン鄧艾を一度撃退したとなれば、ますます追い立てようとすると思います。周りが見えなくなったところを叩くというのはよくあることですので、鄧艾はその方法を用い、諸葛瞻たちを調子に乗らせるためにわざと負けを演じたということも考えられます。
③本当は撃退していなかった
諸葛瞻が鄧艾軍を撃退したという記載は魏書の鄧艾伝にあります。諸葛亮伝中にある諸葛瞻伝にはただ出撃して大敗したことだけが書かれています。
しかしそれでは諸葛亮の息子の活躍としてはあっけなさすぎる為、鄧艾伝に書き加えをしたということ。
これはほとんど妄想や暴論の域であるため、この三つの内では最も信憑性に欠けると思います。
ちなみに、異論は数多く提唱されていますが、蜀には史官がいなかったため、蜀書は内容が簡潔であるという説があります。