亶夏王朝府

開聖7年

第十二回「厳白虎」補二

袁術の揚州支配について。

 

動画内にて、「袁術が揚州刺史陳温の死後その混乱に乗じ、揚州刺史を名乗った」と書いたわけですが、これは魏書袁術伝の「陳温を殺害し、州を支配した」英雄紀の「陳温死後混乱に乗じ、陳瑀を揚州刺史に任命。(中略)陳瑀は下邳に逃げ帰った」という記述を参考にしました。

実際、作者自身袁術が刺史として揚州を支配していたと思い込んでいたのですが、ツイッターにてご意見をいただき、事実は少し違っていたことが分かりました。

呉書孫策伝に、作者が見落としていた人物、袁術の故吏「恵衢」が登場します。彼は袁術により揚州刺史に任命されています。恐らく陳瑀の後釜として用意されたと思います。

では袁術は何だったのかというと、彼は「徐州伯」というものを名乗っていました。

伯というものは漢の官職に実在する役職では無く、あくまで袁術の自称によるものだと思いますが、牧や刺史を超える州の長官や監査官のつもりであることは字のニュアンスから察することができます。安宅産業の社賓のようなものでしょうか。

このときの徐州牧といえばおなじみ陶謙ですが、彼も袁術の息のかかった存在でした。

そして袁術の支配域としてもう一つ挙げられるのが豫州。ここは同じく袁術の下にいた孫堅が刺史を務めていました。(後に劉備豫州刺史となり袁術はこの地を手放します。さらに徐州も劉備が牧となってしまいます。)

また袁術は徐州伯に就いて陳瑀恵衢を揚州刺史に任命以降、劉勲や袁胤など自分の息のかかった人物を太守に任命しています。このように自分の思い通りになる人物を刺史や牧、太守などに任命し、それを伯として裏で操り支配するというのが袁術のやり方だったようです。特に恵衢という人物は揚州刺史に任命されたこと以外事績の無い人物なので、本当の本当に袁術の傀儡だったのでしょう。

陶謙のみ順序が違い、徐州牧になった後袁術と手を組んでいますが、それ故に袁術は牧の上位職として徐州伯を名乗ったのではないでしょうか。しかしこの行為は後に陶謙袁術が仲違いする原因の一つでもあったように思われます。

孫堅の場合は、袁術南陽太守になり孫堅を豫洲刺史に任命しています。実は権限の上では「牧≒刺史>太守」ですが、秩石では「牧=太守>刺史」であり、太守は刺史よりも位が上になります。なので孫堅は自分よりも位が上であり、ヤクザまがいのケツ持ちをする袁術には逆らえませんでした。

しかし結局のところ、先述したように豫州劉備にとられ、徐州もまた劉備にとられると徐州伯であることの意味もなくなってくるため「漢の命運も尽きかけてるし、これもう皇帝になったほうが手っ取り早くね?」という結論に至り、「あんな事」をしてしまったのではないでしょうか。

改めまして、ご意見いただきありがとうございました。当動画は視聴者の方々のご意見やご感想、応援などによて支えられています。

第十二回「厳白虎」補


三国志珍人物伝 第十二回「厳白虎」【ゆっくり解説】

 

◆参考文献

書籍

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

 
正史 三国志〈7〉呉書 2 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈7〉呉書 2 (ちくま学芸文庫)

 
正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

 
もう一つの『三国志』 異民族との戦い (新人物文庫)

もう一つの『三国志』 異民族との戦い (新人物文庫)

 

サイト、デジタル論文

三国時代の江南豪族について

道教神仙系譜『洞玄霊宝真霊位業図』について

厳虎 - Wikipedia

孫策の江東平定 - Wikipedia

陳瑀とは - 三国志小事典 Weblio辞書

三國志年表

呉の四姓 | 呉書見聞

 

 

 

 

 

 

 

第十一回「諸葛瞻」補三

綿竹の地形と諸葛瞻の勝利について。

ニコニコ動画にて「綿竹は防戦に不向きでは?」といった内容のコメントを
いくつかいただきました。
お答えしますと、作者の不勉強により、綿竹も涪のような防戦に適する土地であると
思い込んでいました。その後ネット等で調べなおした結果、正しくは綿竹も平地であったようです。この場でお詫びいたします。

間違えたうえで僭越ですが、改めて綿竹が平地であったことを踏まえ、諸葛瞻がなぜ綿竹まで撤退して戦い、そして事実一度は鄧艾軍を撃退することに成功したのかと考えた結果、以下のような三通りの解釈をいたしました。

 

①戦いやすい場所を選んだ

②鄧艾たちは一度わざと負けた

③本当は撃退していなかった

 

①戦いやすい場所を選んだ

諸葛瞻はこの戦いが初陣となります。部将が優秀でも指揮官が簡単に死んでしまえば元も子もありません。

平地といえば正面から決戦を挑むには丁度良い場所となりますし、涪と比べて成都にも近く補給線も短くなります。諸葛瞻は皇帝の娘婿ですので、黄皓といえど補給を出し渋るわけにもいきません。

敵は寡兵で装備も兵糧も十分ではなく、恐らく成都を落とせなければ死ぬしかない片道切符のような状態だったと思われますので、比較的攻め落としにくい涪で消耗を待ち、戦いやすい綿竹で決戦を挑むというのが諸葛瞻の策だったのではないかと推測いたします。

 

②鄧艾たちは一度わざと負けた

初陣の諸葛瞻ですが、このときは降服勧告に来た特使を斬るほど血気に逸っています。

そこでさらに、魏軍のベテラン鄧艾を一度撃退したとなれば、ますます追い立てようとすると思います。周りが見えなくなったところを叩くというのはよくあることですので、鄧艾はその方法を用い、諸葛瞻たちを調子に乗らせるためにわざと負けを演じたということも考えられます。

 

③本当は撃退していなかった

諸葛瞻が鄧艾軍を撃退したという記載は魏書の鄧艾伝にあります。諸葛亮伝中にある諸葛瞻伝にはただ出撃して大敗したことだけが書かれています。

しかしそれでは諸葛亮の息子の活躍としてはあっけなさすぎる為、鄧艾伝に書き加えをしたということ。

これはほとんど妄想や暴論の域であるため、この三つの内では最も信憑性に欠けると思います。

ちなみに、異論は数多く提唱されていますが、蜀には史官がいなかったため、蜀書は内容が簡潔であるという説があります。

第十一回「諸葛瞻」補二

諸葛亮の軍師将軍について。

 

前編において、「父諸葛亮を超える期待で諸葛瞻に軍師将軍の位を与えた」といったことを書きましたが、コメントにて、諸葛亮もまた益州攻略後に左将軍府事に加え、軍師将軍の位を与えられているとご指摘いただきましたので、この場にて補足訂正とさせていただきます。

 

コメントいただき、ありがとうございました。

第十一回「諸葛瞻」補

 


三国志珍人物伝 第十一回「諸葛瞻」前編【ゆっくり解説】


三国志珍人物伝 第十一回「諸葛瞻」後編【ゆっくり解説】

◆参考文献

書籍

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

 
正史 三国志〈4〉魏書 4 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈4〉魏書 4 (ちくま学芸文庫)

 
正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈6〉呉書 1 (ちくま学芸文庫)

 
貫く 蜀書 (正史 三国志英傑伝)

貫く 蜀書 (正史 三国志英傑伝)

 
三国志演義 (下) (奇書シリーズ 2)

三国志演義 (下) (奇書シリーズ 2)

 
「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち (講談社選書メチエ)

「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち (講談社選書メチエ)

 

サイト

諸葛瞻 - Wikipedia

黄皓 - Wikipedia

尚書事の話 | もう、ゴールしてもいいよね・・・?

諸葛瞻が敗れたのは相手(鄧艾)が悪かっただけという可能性 - Memo.Medamayaki

諸葛瞻が黄皓を引っ張り出した。 - 歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

射声校尉について

第一回「張魯」補二

侯について。

動画においては「侯」という言い方をしましたが、正しくは「ロウ中侯」と言います。

これは、侯の種類における「列侯」、その中の「県侯」に当たります。

 

後漢王朝時代においては、侯には列侯と次点の関内侯の二種類に大別されます。
関内侯は列侯と違い、領地などは与えられず、国からの資金(禄)が与えられるのみでした。(例外あり)

さて列侯ですが、三国志には「列侯に封じられた」と書かれる人物が多いですが、これは列侯という名前の爵位が与えられたというわけではありません。
列侯は通常、国から領地(侯国)を与えられ、「領地の名前+侯」と呼ばれるようになります。
例えば郭淮并州太原郡の陽曲県を与えられたので「陽曲侯」と呼ばれました。
李カクは司隷馮翊郡の池陽県を与えられたので「池陽侯」と呼ばれました。
「列侯に封じられた」とだけ書かれた人物は、どこの地が与えられたかまでは不明だが爵位は与えられたということだと思われます。

この列侯の中にも種類があり、それぞれ「県侯」「郷侯」「亭侯」というものがありました。
上記の郭淮や李カクは県が与えられているので県侯にあたります。
郷侯は、牟郷侯となった許チョやリ郷侯となった馬超などが挙げられます。
亭侯は、漢寿亭侯となった関羽や新亭侯(のちに西郷侯)となった張飛などが挙げられます。

このように、侯には様々な種類があるため、「人臣がなり得る最高の爵位」として、様々な種類の侯(列侯)を総括する意味で、動画内では「侯」と一括りに表現いたしました。この場で補足いたします。

 

第十回「魏諷」補


三国志珍人物伝 第十回「魏諷」【ゆっくり解説】

◆参考文献

書籍

正史三國志群雄銘銘傳

正史三國志群雄銘銘傳

 

サイト

魏諷 - Wikipedia

宋忠 - Wikipedia

張繍 - Wikipedia

王粲 - Wikipedia

劉ヨク - Wikipedia

三国志漂流 06:「魏諷の乱」の裏側

勝手に「丁儀伝」