◆参考文献
書籍
ろくでなし三国志 本当はだらしない英雄たち (ソフトバンク新書)
- 作者: 本田透
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2010/06/18
- メディア: 新書
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サイト、デジタル論文
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ろくでなし三国志 本当はだらしない英雄たち (ソフトバンク新書)
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綿竹の地形と諸葛瞻の勝利について。
ニコニコ動画にて「綿竹は防戦に不向きでは?」といった内容のコメントを
いくつかいただきました。
お答えしますと、作者の不勉強により、綿竹も涪のような防戦に適する土地であると
思い込んでいました。その後ネット等で調べなおした結果、正しくは綿竹も平地であったようです。この場でお詫びいたします。
間違えたうえで僭越ですが、改めて綿竹が平地であったことを踏まえ、諸葛瞻がなぜ綿竹まで撤退して戦い、そして事実一度は鄧艾軍を撃退することに成功したのかと考えた結果、以下のような三通りの解釈をいたしました。
①戦いやすい場所を選んだ
②鄧艾たちは一度わざと負けた
③本当は撃退していなかった
①戦いやすい場所を選んだ
諸葛瞻はこの戦いが初陣となります。部将が優秀でも指揮官が簡単に死んでしまえば元も子もありません。
平地といえば正面から決戦を挑むには丁度良い場所となりますし、涪と比べて成都にも近く補給線も短くなります。諸葛瞻は皇帝の娘婿ですので、黄皓といえど補給を出し渋るわけにもいきません。
敵は寡兵で装備も兵糧も十分ではなく、恐らく成都を落とせなければ死ぬしかない片道切符のような状態だったと思われますので、比較的攻め落としにくい涪で消耗を待ち、戦いやすい綿竹で決戦を挑むというのが諸葛瞻の策だったのではないかと推測いたします。
②鄧艾たちは一度わざと負けた
初陣の諸葛瞻ですが、このときは降服勧告に来た特使を斬るほど血気に逸っています。
そこでさらに、魏軍のベテラン鄧艾を一度撃退したとなれば、ますます追い立てようとすると思います。周りが見えなくなったところを叩くというのはよくあることですので、鄧艾はその方法を用い、諸葛瞻たちを調子に乗らせるためにわざと負けを演じたということも考えられます。
③本当は撃退していなかった
諸葛瞻が鄧艾軍を撃退したという記載は魏書の鄧艾伝にあります。諸葛亮伝中にある諸葛瞻伝にはただ出撃して大敗したことだけが書かれています。
しかしそれでは諸葛亮の息子の活躍としてはあっけなさすぎる為、鄧艾伝に書き加えをしたということ。
これはほとんど妄想や暴論の域であるため、この三つの内では最も信憑性に欠けると思います。
ちなみに、異論は数多く提唱されていますが、蜀には史官がいなかったため、蜀書は内容が簡潔であるという説があります。
◆参考文献
書籍
「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち (講談社選書メチエ)
サイト
諸葛瞻が敗れたのは相手(鄧艾)が悪かっただけという可能性 - Memo.Medamayaki
侯について。
動画においては「侯」という言い方をしましたが、正しくは「ロウ中侯」と言います。
これは、侯の種類における「列侯」、その中の「県侯」に当たります。
後漢王朝時代においては、侯には列侯と次点の関内侯の二種類に大別されます。
関内侯は列侯と違い、領地などは与えられず、国からの資金(禄)が与えられるのみでした。(例外あり)
さて列侯ですが、三国志には「列侯に封じられた」と書かれる人物が多いですが、これは列侯という名前の爵位が与えられたというわけではありません。
列侯は通常、国から領地(侯国)を与えられ、「領地の名前+侯」と呼ばれるようになります。
例えば郭淮は并州太原郡の陽曲県を与えられたので「陽曲侯」と呼ばれました。
李カクは司隷馮翊郡の池陽県を与えられたので「池陽侯」と呼ばれました。
「列侯に封じられた」とだけ書かれた人物は、どこの地が与えられたかまでは不明だが爵位は与えられたということだと思われます。
この列侯の中にも種類があり、それぞれ「県侯」「郷侯」「亭侯」というものがありました。
上記の郭淮や李カクは県が与えられているので県侯にあたります。
郷侯は、牟郷侯となった許チョやリ郷侯となった馬超などが挙げられます。
亭侯は、漢寿亭侯となった関羽や新亭侯(のちに西郷侯)となった張飛などが挙げられます。
このように、侯には様々な種類があるため、「人臣がなり得る最高の爵位」として、様々な種類の侯(列侯)を総括する意味で、動画内では「侯」と一括りに表現いたしました。この場で補足いたします。
◆参考文献
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